みんなの法話

ほんとうの親心

本願寺新報
2012(平成24)年11月20日号掲載
岡崎 秀麿(おかざき ひでまろ)
(本願寺派総合研究所研究助手)


カット 林 義明

互いに条件をつける

「おかえり~」

私が玄関を開ける音に気づいて、息子がリビングから小走りにかけよってきます。先日3歳になったばかりの息子の笑顔と声には、一日の疲れを吹き飛ばしてくれる力があります。

3歳にもなると、いつ、どこで覚えたのかと思うような言葉を使ってみたり、ハラハラするような行動をしたり、好き・嫌い、したい・したくない、欲しい・欲しくない、といった意思表示もできるようになり、私と妻は子どもに振り回されています。日々、子どもの成長に喜び、悩み、不安を抱えながらも、親としてできる限りのことをしようと奮闘しています。

こうした日常を過ごすなか、自坊での法要の際でしたが、私やご門徒のマネをして念仏する息子のすがたを見て、ふと気づかされたことがあります。それは、ひそかに私と息子は、「~をしたら」「~ができたら」という条件をつけあいながら関係を築いていたということです。

例えば、百貨店に行った時です。息子は車が好きなのか、ゲームコーナーにある車の乗り物に向かって脇目もふらず駆け寄ったかと思えば、「ブッブー」と声を張り上げ、ハンドルをグルグルと回し続けます。短い時間ならいいのですが、20分、30分と経つにつれ私も待ち疲れて、「違うところに行こうよ」「もう終わりにしよう」などと声をかけますが、息子は無視・・・。さらに10分も経つと我慢も限界、「ジュース飲みに行こうか・・・」。

息子はそれきた、とばかりに「うん。ジュース、ジュース」とまたもや声を張り上げ、ハンドルを離します。

こういったことは、その時々の都合によってしょうがない面もあるのかもしれません。しかしながら、私はいつも「私の都合」を中心にした態度や言動をしているのです。

百貨店での言動も、「私が疲れてきたから」「私が飽きたから」「私が違うことをしたいから」、このような「私の都合」を隠して、息子に「ダメだよ」「~しなさい」「~しよう」などと言い、自分がしたいように息子を誘導しているのです。

如来のお心を聞く

「親さま」とも呼ばれる阿弥陀如来は、私たちをどのように見ていらっしゃるのでしょうか。

『教行信証』「行(ぎょう)巻」には、源信和尚(げんしんかしょう)の『往生要集(おうじょうようしゅう)』から、次のような文が引用されています。

慈眼(じげん)をもつて衆生(しゅじょう)を視(み)そなはすこと、平等(びょうどう)にして一子(いっし)のごとし。ゆゑにわれ極大(ごくだい)慈悲母(じひも)を帰命(きみょう)し礼(らい)したてまつる。(註釈版聖典184ページ)

「仏(ほとけ)は慈悲の眼(まなこ)で衆生を平等に、またただ一人の子供のようにご覧になる。だからわたしは、広く大いなる慈悲の心を持つ母である阿弥陀仏を信じ礼拝したてまつる」(現代語版『教行信証』105ページ)と示されます。

阿弥陀如来は、あらゆる人々を平等に、一人の子どものようにご覧になる慈悲の眼をそなえていらっしゃる母に喩(たと)えられています。

あらゆる人々を我が子のようにご覧になる阿弥陀如来の慈悲の眼にうつるものこそ、「私の都合」を中心としてしか生きられない私たちのすがたです。阿弥陀如来は、そのような私たちに向かって「必ず救うまかせよ」との南無阿弥陀仏のよび声となっておはたらきくださっています。

息子の口から現れ出たお念仏に接し、阿弥陀如来のお心に気づかされるとき、同時に、自分の息子に対してだけでなく、あらゆる場面で、したい・したくない、欲しい・欲しくないと、「その時々の自分の都合」を押しつけ、もっともらしく親として、またあるときは子として、先輩として・・・などと上手に仮面をつけかえては行動している私自身のすがたに気づかされ、反省させられます。

阿弥陀如来のようなお心になることはできませんが、お念仏の中でそのお心に気づかされ、支えられて生きていく中には、尊い一つ一つの命の中で生かされてある「今この私」に気づかされ、感謝できる生活が恵まれるのではないでしょうか。

それは「私の都合」で発するのではない、「私」を生かしてくれる阿弥陀如来へ、そして息子への「ありがとう」の生活でありましょう。