みんなの法話

本当の「こころ」にあう

本願寺新報
2012(平成24)年11月10日号掲載
根来 暁(ねごろ あきら)
(広島・西福寺住職)


カット 林 義明

終わらない苦しみ

先日、在宅緩和ケアに携わっていらっしゃる医療従事者を対象にした講演会で、ご法話をする機会がありました。

お話をした後に、あるリハビリ施設に勤めている女性の方が質問をされました。その方は、リハビリ期間が終わって退所された患者さんが亡くなられたとき、「最後まで自分は看取(みと)れなかったけれども、ご縁のあった方なので」と思い、ご遺族にご挨拶に行くようにされているそうです。

しかし、「自分が本当に十分な対応ができたのだろうか?」と不安になり、「ご遺族の方と向き合うのには相当の覚悟がいるし、正直しんどいです」と話してくださいました。

また、実際に家族を介護されている方も参加されていたようで、ある方は「正信偈をおつとめしていても、イライラした気持ちや、上の空になっている時も多いです。本当にこんな気持ちでいてもいいのでしょうか」と質問されました。

誰しも、人生にはいろんな問題が起こります。家族、学校、友人、仕事、金銭的なこと。また、病気になったり、ケガをしたり、年をとったりと、健康や身体的な問題も起こってきます。身近な問題だけでなく、大きな範囲では政治や経済、地域、国同士の問題なども関係してきます。

こうした問題は、私自身と周囲との関係性の中で悩みの程度が変わっていきます。自分とあまり深い関係がないと思えば「このことは捨てて、違うものを求めよう」と先送りをすることもできますが、関係が深ければ深いほど、「この問題を解決するもっと良い方法があるのではないか」「こんなことでいいのだろうか?」と不安になります。そして、なんとかしようともがけばもがくほど悩みは深くなっていきます。

親鸞聖人は、そうした私の姿を「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなしひさしくしづめるわれら・・・」(註釈版聖典579ページ)とお示しになられています。

ほとりがないということは、勇気を出してそこから外(そと)に一歩踏み出そうとしても、そこにはまた生死の苦しみが続いているということです。泳ぎ切ろうともがけばもがくほど、海に深く沈んでいくかのような、無辺の苦しみが広がっているのです。

同じ方向を向くと・・・

あるご門徒のお宅に、お参りした時のことです。おつとめの後、お茶をいただいていると、「昔は、お義母(かあ)さん(姑)が植えたあのイチジクの木を、どうしても切りたかったんです・・・。でも今では切らなくてよかったと思ってます」と、その女性は庭を眺めながら話を始められました。

その方はご主人を亡くされ、一人暮らし。それを心配して、事あるごとに娘さんが家族連れで里帰りをされるそうです。その時、亡くなったおじいちゃんのことが大好きだったお孫さんたちは、家に上がると真っ先に仏間に行き、阿弥陀さまに手を合わせるのだそうです。

孫の隣りに座って一緒に手を合わせていると、ふと「お義母さんはこんな思いで私を見てくれていたのかな・・・」と気付かされたのだそうです。

すると今まで憎いと思っていたイチジクの木が、大切なことを伝えてくれていたのではないかと思えるようになったというのです。お義母さんの植えた木と向き合って対峙していた時は、木を見ながらも自分の思いを見ていたのかもしれません。しかし、お義母さんと同じ方向を見たとき、その木に込められた本当の「こころ」に出あわれたのだと思いました。

私の苦しみは無辺であり、そこから抜け出す方法を持たないからこそ、「弥陀弘誓(みだぐぜい)の船のみぞのせてかならずわたしける」(同)という阿弥陀さまの無上のはたらきがあるのです。

自分の勝手な思いから苦をつくり、それを越えようとさらに苦しみ、越えてもなお苦しみが続くと悲しみに沈む私を、大きく包み込んでくださるのです。問題を抱えたとき、そばにいる人の心と対峙し、自分の心と対峙する先には苦しみが続き、不安しかありません。「どんな状態であっても、見護(みまも)り、育て続けていきたい」という阿弥陀さまの「こころ」をともに喜ぶ中に、お互いが安心しあって人生の問題に取り組んでいける道があるのです。