みんなの法話

わが身に届くはたらき

本願寺新報
2012(平成24)年3月1日号掲載
小野 線隆(おの せんりゅう)
(布教使)


カット 林 義明

忙しいから難しい?

親鸞聖人750回大遠忌法要が終わりました。私自身、50年に一度のご勝縁にあわせていただく中で、こうして聖人のお導きに出あえたことを、ますます喜ばせていただきました。しかし、こうしてみ教えにご縁をいただきながらも、お念仏を申す難しさ、お念仏を喜ばせていただくことの難しさを、あらためて感じたご縁でもありました。

皆さまはいかがでしょうか。お念仏申す喜びということを、日々の生活の中で味わうことは、なかなか難しいと感じておられるのではないでしょうか。

私自身、共働きですので、日々の生活を忙しく送っておりますと、阿弥陀さまの前で腰をすえて手を合わせて、お念仏を申して喜ぶことの難しさを日々感じております。

わが家では、手の空いた者が食事の準備をしたり、洗濯をしたり子育てをしたり・・・、そういった生活をしておりますので、あれもしなければ、これもしなければならないという日常ですから、腰をすえて仏さまの前に座るということの難しさといったらありません。

それは共働きの家庭に限ったことではありません。皆さんそれぞれに忙しい日々を送っておられることでしょう。朝早くから夜遅くまで仕事をされている方もおいででしょうし、家事や子育てに追われる生活をされている方も、高齢化社会でありますから、家族の介護を中心として生活している方もいらっしゃるでしょう。

そうした本当に忙しい生活をしておりますと、なかなかお念仏を申すということが難しい、お念仏どころか口を開けば不平不満、何で私がこんなことをしなければならないのか、世間が悪い、あの人が悪いと、愚痴(ぐち)をこぼすことしかないのがこの私です。

また、忙しいというだけでなく、日々深い悲しみに暮れている方も多くおられます。私のご縁のある方々にも、お連れ合いを亡くされた方、近しい方を亡くされた方、小さなお子さんを亡くされた方も見えました。多くの方が悲しみのどん底におられます。その中には、人生を悲観して生きておられる方、ただ時間だけを重ねてその悲しみを薄れさせていくような生き方をされている方もおられます。そうした日々に思いをいたす時にも、お念仏を喜ぶことの難しさを感じるのです。

この私を目当てに

親鸞聖人が示されたお念仏のみ教えは、「必ず救う、まかせよ」といわれる阿弥陀さまから信心をいただいて、ただ念仏申す一生を送らせていただく、ということであり、聖人ご自身の歩みでもありました。

お念仏というのは本来、私がしようと思って私がしているものではない。あれこれして右往左往している者、悲しみ苦しみを抱えて生きている者を目当てとして、念仏申す者に育て上げようというはたらきがあるからこそ、今、私がお念仏している。それが「阿弥陀」という仏さまのおはたらきだとお伝えくださるのです。

悲しみの声を上げたから来てくださる仏さまではありません。私が私の人生をどうにかしてくださいと頼んだから来てくださる仏さまでもありません。私が呼び、私が頼む、そのずっと前から、私の本性を見抜き、日々生活の中であれこれして悲しみに沈みこんでいる、念仏申すことのない者を目当てとして、はたらき続けてくださる仏さま、寄り添ってくださる仏さまが、阿弥陀という仏さまなのです。

不平不満しかこぼれ出ることのない私の口から、阿弥陀さまの願いとはたらきによってお念仏となってくださっている。阿弥陀さまの願いが私の体に満ち満ちて、私の口からお念仏がこぼれ出てくださる。それが親鸞聖人の示されたお念仏だと味わわせていただきます。

そのことを知らされますと、仏さまのことも、仏法のことも知らず、お念仏申すこともなかった私が、いつの間にかお念仏させていただく身の上に育て上げられてきたことの有り難さ、不思議さを感じるのです。

私が称えるお念仏は、阿弥陀さまから我が身に届けられたおはたらきでありますよ、との親鸞聖人のお導きであったと、あらためて喜ばせていただいたこの大遠忌法要でありました。