みんなの法話

恋のはなし

本願寺新報
2012(平成24)年2月20日号掲載
中村 英龍(なかむら えいりゅう)
(広島・最広寺衆徒)


カット 林 義明

恋をしていますか

学生さんにとっては、卒業式の季節が近づきました。「3月は別れの季節、4月は出会いの季節」ということで、これからむかえる3月4月を「恋の季節」と申します!

思い返せば二十数年前、高校の教室で一人の女の子の笑顔が見たい一心で、ずっこけてみせたり、おどけてみせたり、日々むなしい努力を積み重ねている私がいました。しかし現実は、好きな人には振り向いてもらえず、好かれようとすると、自分が自分でなくなってしまう。

結局、想いは伝えられませんでした(心が純だったから)。しばらくして、その子に彼氏ができたことを耳にした時、私に残ったものは、勇気を出せなかった自分のなさけなさと、怒りだけ。思えば、それが大人に一歩近づいた瞬間でした。

さて、恋にもいろいろあると私は思うのです。この会社に絶対入りたい・・・就職活動という恋ごころ。いつまでも元気で若くて・・・健康への恋ごころ。「オリンピック誘致」というのも、恋ごころの一つでは・・・。

ある中学生が、おばあちゃんに「受験に失敗したら、どうしよう・・・」と、不安を打ち明けました。おばあちゃんは孫を抱き寄せ、こう諭(さと)しました。

「受かっても、受からなくても、あんたの人生に寄りそってあげるよ。どちらを引き受けても、それはあんたの人生の宝だよ」

そこには、中学生の「受験」という恋ごころがありました。

皆さんは、どうお考えになりますか。ふつう、想いがかなった出来事は人生の宝になりますが、どうして想いかなわぬ出来事が宝であるのか。宝とは、何なのか・・・。

今、皆さんはどんな恋をしていますか。

心の眼を開こう

親鸞聖人がお書きになった『高僧和讃』という書物に、

 煩悩にまなこさへられて
  摂取(せっしゅ)の光明みざれども
  大悲ものうきことなくて
  つねにわが身をてらすなり
  (註釈版聖典595ページ)

というご文があります。

「煩悩によって自分の殻(から)に閉じこもってしまい、人生の道筋を見失っているこの私に、阿弥陀如来の大悲が常に光を照らしてくださっている」と、自身の身近な所に寄せて味わわせていただきます。

人は、誰もが人生に理想を描きながら、時間の流れと複雑な人間関係に翻弄(ほんろう)されていきます。しかし、大悲に照らされている「わが身」とは、決してそのような孤独な私という意味ではなく、世の中全体のつながりにある私の存在であることに眼を向け直そうというメッセージと味わわせていただきます。

その場にいる時は気付かなくても、失敗やつまずきは私の深さであり、私の傷は必ず誰かに寄り添い、出会いは私の広さとなります。世の中全体のつながりにある私自身の足下に眼を向け直すことができた、実はそれが、弥陀大悲の光明のはたらきなのです。

どうか、阿弥陀如来の大悲のみ教えを聞き、照らされた互いのつながりを大切に味わいましょう。そして手を合わせ、世の中全体に心の眼を開いていきましょう。その、お念仏と共に歩む私たちの人生こそが、弥陀の大悲が伝わる尊い仏縁と活(い)かされてゆくのだから。

親鸞聖人は、そう呼びかけてくださっています。

新たな一歩

あの時、勇気を出していたら、自分の人生、何かが変わっていただろうか・・・。たまにそんな思い出にひたりながらも、今では、昔の道化師だった自分も、勇気を出せなかった自分も、それはそれでよかったのだ。あの時の自分は、今の私の人生に欠かせない大切な自分であったことを、手を合わせ聞き学んでいます。

「どちらを引き受けても、人生の宝」。宝とは、「味がある」ということ。私の宝には、青春時代のほろ苦い味がありました。いろんな出来事や出会いが、人生の味を深めます。味のある人生こそ、生き甲斐(がい)ではないでしょうか。

もうすぐ新しい年度が始まります。どんな出来事があるでしょうか。どんな出会いがあるでしょうか。どれを引き受けても、それは光に照らされた人生の宝です。お念仏申しながら、一歩を大切に踏み出しましょう。