みんなの法話

私を知らされる

本願寺新報
2012(平成24)年2月10日号掲載
本多 靜芳(ほんだ しずよし)
(東洋大学非常勤講師)


カット 林 義明

「涙が止まらない...」

お歳を召した女性から、こんなお話を聞きました。

「あるとき、私は幼稚園の孫娘とお話をしていました。
すると、『おばあちゃん、いつまで生きているの?』って、突然聞いてきたのです。
私はそれでムッと腹を立てて、孫娘を一方的にしかりつけてしまったのです・・・」

このお孫さんは、3人兄弟の末っ子で、お兄さんやお姉さんには勉強部屋や、勉強机があるのに、自分にはいまだにないので、普段からお母さんに、おねだりをしていたそうです。それに対して、このお母さんは、
「家は余裕もないし、狭いからだめよ。でも、もうちょっと待っていなさいね。もうちょっと待っていたら、勉強部屋をご用意してあげるから」
と言ったとか?

もちろん、そんなことをおばあさんの目の前では言いませんが、同じ屋根の下に暮らしていると、お互い察するものがあるのでしょう。
ですから、この方もうすうす気付いていたところに、「いつまで生きているの?」と孫娘から言われたので、一方的にしかりつけたというのです。

このお孫さんは、おばあさんのあまりの剣幕に、びっくりして泣きじゃくりながら、
「だっておばあちゃん、私の結婚式に出てほしいの。出てちょうだいね・・・」
と言ったそうです。

おばあさんは言葉に詰まり、お孫さんを抱きしめながら涙が止まらなくなった、というのです。

わかったつもりでも

この話が、私の心に深く刻まれた理由を、自分なりに考えてみました。

私はお寺に生まれ、それなりに親鸞さまの浄土真宗を聞いてきたつもりです。その私には、次のように自分の心の動きが見えてきました。

まず、私は「けしからんお母さんだな。たとえ、おばあさんがその場にいないからといっても、このような発言をするのは親としてなっていない。教育上、問題のある発言だな」と、お母さんを裁き、批判する心の動きが起こったのだと思います。

次に、私は、このおばあさんに対しても、「この人もなってないな。たとえ、相手が幼稚園の子どもでも、話というものは最後まで聞いてやるものだ。それなのに、このおばあさんも一方的で、せっかちだな」と批判していたと思います。

もちろん人間はいちいち自分の心を確かめながら生きているわけではありませんから、後になって見つめ直すことができたということになります。

しかし、「おばあちゃん、私の結婚式に出てちょうだい」という言葉を聞かされて、私の思い上がりが、決定的に知らされたのです。

親鸞聖人を通して仏教を学び、お互いが認め合い、尊び合うような生き方こそ、浄土真宗が示している「御同朋御同行(おんどうぼうおんどうぎょう)」だと理屈ではわかっているつもりでした。

しかし、私は、相手を認めたり、尊ぶことよりも、気付いたときには、相手を裁き、批判するような自分中心のあり方を、より深いところに抱え込んでいたのです。そして、それを教えてくれたのが、この幼稚園に通うお孫さんの一言だというわけです。

私が仏法を学ぶのは、新しく知識などを学ぶことが大切だと思っていました。つまり、自分の上に、一つでも多く仏さまの教えを知識として覚えて、理解して、それを利用して、どれだけ自分がわかった人間になっていくことができるか。そして、それが人間にとって幸せなことなのだと思っていたのです。

しかし、人間にとって本当に学ぶべきことは、私がどのように物事を考え受けとめているのか、そして、私自身が気付いていない私とはどういう姿なのか、ということだと思いました。ちょうど、鏡の前に立てば自分が見えてくるように、仏さまの教えの前に身を置くと、今まで見えていなかった自分が見えてきます。

教えを学ぶとは、人間として本当に大切なことを自分の上に受けとめていくと同時に、そうなっていない、思い上がった自分に気付かされていくことこそが大切なのだと思いました。