みんなの法話

悲しませていませんか

本願寺新報
2011(平成23)年9月20日号掲載
釋氏 真澄(きくち ますみ)
(布教使)


カット 林 義明

お彼岸のご法話で

「口はわざわいのもと」という言葉がありますが、「あんなこと、言わなければよかったなぁ・・・」と、後悔することがありますよね。さて、仏教ではこのようなことを、どう考えるべきだと教えているでしょうか?

私はカナダで開教使として6年ほどご縁をいただいておりました。毎年、特に春と秋のお彼岸になると、多くの開教使の先生方は「六波羅蜜」についてのご法話をよくされます。六波羅蜜(ろくはらみつ)とは、大乗の菩薩が修めなければならない六種の行業(ぎょうごう)です。

この中で、第二に挙げられているのが、「持戒(じかい)」です。

浄土真宗のお寺では「戒(かい)」についてのお話はあまり聞かないかもしれませんが、大乗仏教では仏さまの説かれた「戒(いまし)め」(自らに課す自己規律)というものを、ただ自分のさとりのためだけでなく、利他行(りたぎょう)として味わうものであるといわれています。

浄土真宗も大乗仏教ですので、その道を歩む者が「他の方の幸せを願う」生き方こそが尊いという、慈悲のはたらきによびさまされ続けるみ教えなのです。

さて、持戒の中にはどんなことが掲げられているのでしょうか?それは「十善戒(じゅうぜんかい)」ともいわれています。

①殺さない ②盗まない ③配偶者以外と淫らな行為をしない ④嘘をいわない ⑤悪口をいわない ⑥二枚舌を使わない ⑦へつらいの言葉を語らない ⑧貪(むさぼ)らない ⑨怒らない ⑩愚かな考えをしない、です。

これを破るのが「十悪(じゅうあく)」です。

耳が痛いとお思いでしょうが、結局この持戒を含めた六波羅蜜とは、仏さまがお示しになられた「仏になる道」、つまり「菩薩の道」を具体的に示したものなのです。

何とも心痛むこと・・・

しかし、みなさんご安心を。浄土真宗では六波羅蜜は私たちが行うのでありません。どんな修行にもたえられない、煩悩だらけの私たちを救おうと、阿弥陀さまが大変な修行を成し遂げられ、その功徳を「南無阿弥陀仏」の六字のお名号として完成され、私たちに届けてくださっているのです。縁に触れれば十悪を行ってしまうような弱い愚かなこの私を、救いの目当てとされているのです。

でもここで安心だけしていていいのでしょうか?阿弥陀さまは生きとし生けるものの悲しみや痛みを、我がものとされているということをお聞かせいただくたびに、人を傷つけ、他の生命を犠牲にしてもなんとも思わないような「私」の姿を深く悲しんでいらっしゃることを知り、十悪は決してすべきことではなく、「他の生命を悲しませることをした・・・」と、心から慚愧(ざんぎ)をすることが大切なのではないでしょうか?

親鸞聖人は、お手紙(ご消息(しょうそく))に次のように記されています。

「煩悩をそなえた身であるから、心にまかせて、してはならないことをし、言ってはならないことを言い、思ってはならないことを思い、どのようにでも心のままにすればよい、と言いあっているようですが、それは何とも心の痛むことです。

はじめて阿弥陀仏のご本願を聞いて、自らの悪い行いや悪い心を思い知り、このような私ではとても往生することなどできないであろうという人にこそ、阿弥陀仏は私たちの心の善し悪しを問うことなく、間違いなく浄土に迎えてくださるのだと説かれるのです。

このように聞いて阿弥陀仏を信じようと思う心が深くなると、心からこの身を厭(いと)い、迷いの世界を生まれ変わり死に変わりし続けることをも悲しんで、深く阿弥陀仏のご本願を信じ、その名号を進んで称(とな)えるようになるのです。

以前は心にまかせて悪い心を起こし悪い行いをしていたけれども、今はそのような心を捨てようとお思いになることこそ、この迷いの世界を厭うすがたであろうと思います(現代語訳)」

当時、関東に起こった「悪いことをしても浄土往生のさまたげとなるものは何もないから、悪を行おう」という大きな誤解に対して、京都の親鸞聖人が深く嘆いておられるお手紙です。

現代の私も、阿弥陀さまや親鸞聖人を、悲しませていないでしょうか・・・。