みんなの法話

サンキュー ブッダ

本願寺新報
2011(平成23)年9月10日号掲載
寺前 逸雄(てらざき いつお)
(滋賀・真願寺住職)


カット 林 義明

アリガトウ・・・だけは

「やっぱり」と思いました。

その時、彼女は確かに「アリガトウ」と、たどたどしい日本語で、コンビニのレジにいる男の子に言ったのです。

ビジネス街にあるその店では、レジ袋に商品を入れてもらって店員にお礼を言うような人はほかになく、その男の子はちょっとけげんそうな表情をしたように見えました。

彼女は、女子高生です。ただし、カナダから来た。海外開教区からの青少年国際研修団の一員として来日し、私のお寺がホームステイ先として受け入れることになり、京都市内を案内している時のことでした。

彼女は日系4世で、話せる日本語は非常に限られているのですが、なぜ、「ありがとう」だけは忘れずに言えたと思いますか?

それは、お礼の言葉を言わずにおれなかったからです。

英語を使う生活をしていて、一日のうちで、一番よく使う言葉は何かというと、間違いなく「サンキュー」または、類似の言葉です。「サンクスアミリオン(百万回ありがとう)」などという言い方までありますし、断る時だって、「ノーサンキュー(結構です。でも、ありがとう)」などと言ったりします。「サンキュー」を言わないというのは、社会的に受け入れられないのです。

「それは日本語だって一緒だ」という声が聞こえてきそうですが、問題は「誰が、誰に対して言うか」なのです。

地位や立場ではなく

日本では、店員さんとある程度の関係ができていないと、お客が店員に「ありがとう」とは、あまり言いません。

なぜか。それは、店が客に対して「ありがとうございました」というものであって、その逆ではないという理解があるからです。

でも北米では、お客が店員に「サンキュー」と言い、店員は「ユアウェルカム(どういたしまして)」と返すのが当たり前なのです。私もかつてカナダに住んでいた時、最初は戸惑いましたが、慣れてくると、その感覚がしみ込んでいきました。

お店に行っても、客である私は、店員という「立場」を意識することなく、レジを打って袋に品物を詰めてくれた相手の「行為」に対してお礼を言うのです。(どういう立場の)「誰」が、ではなくて、「何を」してくれたか、が大事なのです。

帰国して、もう20年以上になります。

「カナダは、住みやすいですか?」と、今でもよく聞かれます。私は答えます。

「見知らぬ人とでも、相手の地位や立場を意識しないで、個人として会話が成立する社会は居心地がいいですよ」

自然が豊かで住みやすいというような答えを期待しておられた方は、不思議そうな顔をします。

翻(ひるがえ)って、日本では地位や立場による、固定観念がまだまだ根強いように感じます。女が男に、子が親に、生徒が先生に、店員が客に、言うべきではないことがたくさんあるように思います。

「ありがとうございます」は、相変わらず店員が客に一方的に使う言葉のようです。当たり前、でいいのでしょうか?

仏教では、「有り難い」というのは、人として命をいただき、仏の教えを聞くことができたという、難しいことができたことを感謝するのであって、地位や、金銭のやり取りの有る無しによって、感謝する相手を選ばないはずです。「いただく」ということは、もともと自分のものではないのですから。

親鸞聖人が、師の法然聖人の「信心」も、自分の「信心」も、ともに「仏」からいただいたものであるから同じものだとおっしゃって、ほかのお弟子さんから反発されたにもかかわらず、法然聖人も同じ信心だと認められたというお話がありました。この中に、お念仏をいただく者の、真に個人を尊ぶ社会への道が示されているのではないでしょうか。

カナダにいた時に、ある日曜学校の子どもが、「先生、南無阿弥陀仏とは『サンキューブッダ』だね」と言いました。思わず、うなりました。

誰に対しても、「ありがとうサンキュー」を言う、そんな社会にしていくのは、私たちの責任だと思いませんか?