みんなの法話

わかり合う

本願寺新報
2011(平成23)年8月10日号掲載
寺澤 真琴(てらさわ まこと)
(布教使)


カット 林 義明

経験した者同士でも

私には中学生になるダウン症の息子がいます。その体験を大学生に話す機会がありました。生まれてまもなく医師からダウン症の疑いと告げられた時の驚きや戸惑い、病気がちで困ったこと、早期療育が大切と聞いてあちこち走り回ったこと、偏食で保育所の給食を食べるのに1年かかったことなど、話題はいくらでもあります。

ちょうどテレビでダウン症のドラマやドキュメンタリーが放送されていた時期でもありました。メディアの美談調なパターンに疑問を持っていた私は、「当事者でないとわからないことがあります」と無意識に口に出していたようです。

後で学生の感想を読んだら、「私は障がいに関(かか)わる人の気持ちを理解したいと思いますが、当事者でないとわからないと言われてしまうと悲しくなります」というものがありました。私ははっとしました。

「経験した人こそわかる」ということが言われます。私も、ダウン症親の会というものに入れてもらって、他の親御(おやご)さんと話をして落ち着いた時期がありました。なるほど遠慮なく話ができる場ほど安心できるものはありません。話をしていて、肩の力が抜けていくのを感じたものです。この意味では、経験した者同士が共鳴し合えるというのは事実です。しかし、必ずしも経験者との交流が、私の苦しみを取り除いてくれるとは限りません。

私が少し冷静になった時、見えてきたのは他との違いの部分でした。一口にダウン症といっても、個々の症例は全然違います。同じくくりに入れるのが難しいぐらいに、症状の出方も発達の度合いも変わるのです。加えて家族の環境や考え方も千差万別です。社会の雰囲気も制度もめまぐるしく変化します。もちろん本人の性格や意志もそれぞれです。こうなると、経験談は参考意見の一つに過ぎず、悩みを解決できるものではないのです。

そんな中で出てきたのは、優越感、羨望(せんぼう)、後悔、嫉妬(しっと)といった「煩悩」でした。これでは安心できるどころか、迷いが深くなるばかりです。ダウン症以外の症例でも、同じようなことがあるのではないでしょうか。

これはまさに「自我」のなせるわざです。私はこうありたい、私にはこう見えるという自我のフィルターが、次から次へと苦しみを作り出しているのです。頭ではわかっていても、それをやめられないのですね。

ありがたい出あい

先日も、私は近所の中学生の制服姿を見て、複雑な気持ちになりました。息子は支援学校に満足して通っているにもかかわらずです。私というものは、絶望的に自己中心的な生き物だと思わざるを得ません。ややこしいことを言って申し訳ありませんが、私たちが知らなければならないのは、わかり合うことの難しさそのものではないでしょうか。

学生たちへの私の発言は、人との間に壁を作る傲慢(ごうまん)な響きを持っていたのでしょう。それに対して「でも私は理解したい」という学生がいたということに、私は恥ずかしく感じ、有り難いと思いました。考えてみたら、私はそのようないくつもの「ありがたい」出あいに支えられてきたという気がします。

私の苦しみは、自我の壁がある限りなくなりません。でも、私が私である以上、私の方からその壁を乗り越えることも困難です。それが可能になるのは、自己中心的な私が、自己中心的でない大きなものに出あった時でしょう。私の自己の抵抗が無意味になることによって、自己の問題が解決されるのです。そこに、私が苦しみから解放される可能性が開け、人と人とがわかりあえる可能性が開けるのだと思います。その出あいというのも、実は向こうから準備されたものであるはずです。私たちに準備されている、この私たちを下支えするものが阿弥陀さまの慈悲です。

悲しみの経験を語るというのも、同じではないでしょうか。語ったことが、たとえわずかであっても相手に共感してもらえるという思いがなくては、語りは成立しません。その共感を生む根拠は、阿弥陀さまの慈悲が私たちに届いているということにほかならないでしょう。私たちは、その慈悲の上で救われ、共感していくのです。