みんなの法話

猫も小判!

本願寺新報
2011(平成23)年5月20日号掲載
菅本 了道(すがもと りょうどう)
(島根・立善寺住職)


カット 林 義明

学ぶとどうなる?

東西本願寺など浄土真宗の十派でつくる真宗教団連合が、京都市美術館で開催している「親鸞展」を見学しました。聖人が実際に書かれたものや生前のお姿など、本物の持つ迫力が伝わってきて、とても感動しました。イヤホンから流れる三國連太郎さんの音声ガイドも、素晴らしいものでした。

「○○展」などの展示を見学するたびに思い起こす一つの光景があります。もうずいぶん前のことなのですが、博物館での兄弟の会話です。保育園か幼稚園に通っている子が、展示ケースの中を見てこんなことを言いました。

「なんでここに"石ころ"が入れてあるの?」

それを聞いた小学校高学年ぐらいの兄とおぼしき男の子が、「これは"石器"といって、昔の人が使った石の道具だよ」と説明していました。

幼い弟には単なる石ころにしか見えなかったものが、兄には石器という大昔の人々が生活の中で使用していた道具だと見ることができたのです。

学ぶことによって、見方が変わったのです。価値を発見できたのです。

ただ、学ぶことは偉くなること、立派になることだと思ってはいけないと思います。学ぶことによって、「こんなことも知らなかった。あんなことも・・・」と自分の愚かさを知らされる、と味わいたいものです。

学べば学ぶほど、自分の知らないことが逆に増えてきます。至らない自分に気付かされることでもあるのです。

学んだことにより知識が増え、知恵がつき、賢くなったとしても、その結果が人を馬鹿にするだけでは困ります。私は、賢くなることばかりを求める教育には問題があると危惧(きぐ)しています。

親鸞聖人は、ご自分のことを「愚禿(ぐとく)」と名のっておられます。しかし、国宝「観無量寿経註(ちゅう)」を見るだけでも、ものすごい研鑽(さん)を積まれたことが知らされます。

「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」とは、まさしく親鸞聖人の姿です。その聖人が一筋に歩まれたのが、お念仏の一道です。「南無阿弥陀仏」です。

このわずか六字に込められた阿弥陀さまのお心、そして親鸞聖人のお心は、聴聞を重ねていく"仏縁"の中で聞き開いていくものです。先人たちが命がけで伝えてくださったお念仏を、石ころにしか思えないようでは、本当に残念なことです。

役に立たなくても・・・

ところで皆さんはペットを飼っていますか。うちのお寺には「たま」という名の猫がいます。お昼寝の大好きな猫です。

猫は人の役に立つようなことは、あまりしませんね。その点、犬は立派なものです。盲導犬、耳の不自由な人を助ける聴導犬、車いすを引くこともする介助犬、麻薬の探知犬・・・など、さまざまに活躍しています。

人に役立つということだけで比べれば、断然、犬に軍配が上がります。でも、猫は猫でかわいいところがあります。愛らしいところがあるものです。犬のように役立つようになったらかわいがってやる、というわけではないのです。猫は猫なりに素晴らしいところがあると思います。

『仏説阿弥陀経』には「青色(しょうしき)には青光(しょうこう)、黄色(おうしき)には黄光(おうこう)、赤色(しゃくしき)には赤光(しゃくこう)、白色(びゃくしき)には白光(びゃくこう)ありて、微妙香潔(みみょうこうけつ)なり」(註釈版聖典122ページ)と説かれています。青、黄、赤、白のそれぞれの色が、そのまま輝く世界が描かれています。猫は猫のまま、犬は犬のまま輝く世界があるといえるのです。

「猫は犬にはなれません!」

同様に、私はあなたになれないのです。私は私として生まれ、私として生涯を終えていかねばならないのです。そして、この私は年をとり、病気になり、迷惑をかけるだけで、何の役にも立てなくなるかもしれません。でも、私がどういう存在になったとしても、「あなたしかできない尊いことがあるのですよ」と、いつでもどこでも阿弥陀如来さまから大切に思われている"私"であるというのです。本当にありがたいことだと、お念仏申させていただくばかりです。