みんなの法話

生死出づべき道

本願寺新報
2011(平成23)年1月1日号掲載
稲城 選恵(いなぎ せんえ)
(勧学)


カット 林 義明

生命に宿る問い

「自分が死んでいかなければならない」

これは極めて宗教的な問いです。しかし、この問いを持つ人は少ないのではないでしょうか。また、臨終になろうとも、この問いを真剣に考えることなく死んでいく人もあることでしょう。ところがこの問題は、たとえ若くとも、また健康に自信があろうとも、決して無関係ではなく、この世に生まれた万人が抱える共通の問題なのです。

この宗教的な問いをひとたび持つような事態となれば、この私を支えてくれるものは何ひとつないことに気付かされます。ただ一人この世に来て、ただ一人この世を去っていく。まったくの単独者であり、孤独です。「自分が死んでいかなければならない」という宗教的な問いは「生命」そのものの中に宿っているといってよいでしょう。

「生命」を営んでいくために必要な教養や知識、蓄えた財産などは、死を目の前にしては何の支えにもなりません。

では、ただ一人空(むな)しくこの世を去っていかなければならないのか、と思い悩むしかないのでしょうか。

生と死は紙の裏表のようなものですから「生死(しょうじ)の問題」といい、「生死の壁」ともいいます。浄土真宗では「後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)」ともいいます。

生死の壁の前で終わる人生は、ただいたずらに暮らし、いたずらにあかした生活であり、そこに、人間に生まれた意義を見いだすことはできません。あたかも人生は夢のようなもので、夢を見ているときはそれが現実で、その現実にいかり、腹立ち、悲しみ、喜びます。しかし夢から覚めてしまうと、夢の中の現実は、まったく空ごとたわごとというものでしょう。

この生死の壁を超えていく道を明らかにされたのが、今年、750回大遠忌のご法要がおつとめされる親鸞聖人です。聖人が説かれた仏法は、まさしく「生死出(しょうじい)づべき道」なのです。

煩悩をかかえたまま

仏法のさとりは涅槃(ねはん)といい、涅槃をインドの古語ではニルバーナといいます。それは煩悩(ぼんのう)を吹き消した状態を意味します。しかし煩悩具足といわれるこの私は、煩悩の世界から一歩も出ることは不可能です。というのは、この煩悩は、自己中心のメガネをかけて人生を受けとっているために生じるのです。このメガネはいかに知識や教養があっても取り除くことは至難です。しかし、阿弥陀如来のご本願にあわせていただくと、「正信偈(しょうしんげ)」に「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」(煩悩を断(た)たずに涅槃を得る)とあるように、煩悩の身のままで、涅槃のさとりに至る道が開かれています。

阿弥陀如来のご本願は、煩悩から一歩も出ることの不可能なこの私のために特別に誂(あつら)えられた大慈悲の願いだからです。このご本願に「必ずたすける」と誓われたまま、この私の上にはたらいてくださるのが南無阿弥陀仏のお名号です。

この南無阿弥陀仏は、私の存在するところに、いつでも、どこでも既に与えられているのです。ですから、この私の生死の問題は私が解決するのではなく、解決してくださっている南無阿弥陀仏の法が先に与えられているのです。

それ故(ゆえ)、浄土真宗の教えは、今ここが臨終であっても、このご本願を聞けば、間に合う教えなのです。

俳人・松尾芭蕉の門人として知られる曽良(そら)の句に、

行きゆきてたおれ伏すとも
萩の原

と詠(よ)まれたものがあります。

南無阿弥陀仏のはたらきは、いま私の上に至り届いています。それは私を仏にするというはたらきであり、私がどこで倒れようともそこが彼岸の世界、お浄土なのです。「萩の原」とは、このお浄土をあらわした名句です。

不治の病となり、明日をも知れない状況であっても、阿弥陀如来は一人も漏らさず救うはたらきとなってくださっています。その証拠が、いつでもどこでも誰にでも届けられている南無阿弥陀仏であり、皆さんのお家のお仏壇(ご本尊)です。

この私のたすかる道を、自分が求め聞いて理解するのではなく、救い取って捨てないという南無阿弥陀仏の法を聞かせていただくのが、浄土真宗の要なのです。