みんなの法話

化かされていませんか

本願寺新報
2010(平成22)年10月1日号掲載
鈴木 善隆(すずき ぜんりゅう)
(布教使)


カット 林 義明

仏さまと直結の道

ときたま〝浄土真宗には行(ぎょう)がない〟などと言われる方がありますが、行のない仏教なんてありえないのです。なるほど、この世で煩悩をなくして聖者(しょうじゃ)をめざす〝修行〟としての行はありませんが、だからといって、行がないとなると仏教を逸脱することになります。

ではどうなのか──

はい、この世でさとりを開く此土入聖(しどにっしょう)の修行は無用ですが、浄土に往生し仏と成(な)る彼土得証(ひどとくしょう)の「大行(だいぎょう)」である「南無阿弥陀仏」のお念仏があるのです。大行であるお念仏をこの身に確かにいただいております、と味わうのが浄土真宗のみ教えではないでしょうか。

その南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)大行は、私たちにとっていかなる意味をもつのでしょう。

それについて、親鸞聖人は『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』総序(そうじょ)のご文(もん)に、

かならず最勝(さいしょう)の直道(じきどう)に帰(き)して、もつぱらこの行(ぎょう)に奉(つか)へ、ただこの信(しん)を崇(あが)めよ
(註釈版聖典131ページ)

とご教示くださいました。

すなわち南無阿弥陀仏の大行は、阿弥陀さま直接の道ですから〝わが道〟といただき、「この道を歩め」と願われた阿弥陀さまのおこころを尊崇いたしましょう、との思(おぼ)し召(め)しであります。

「他の道」で右往左往

それではなぜ「南無阿弥陀仏」を〝私の歩む道〟といただくのかについて、同じ総序のご文に、

穢(え)を捨(す)て浄(じょう)を欣(ねが)ひ、
行(ぎょう)に迷(まど)い信(しん)に惑(まど)い

であるからと仰せられました。すなわち、いかに「厭離穢土(えんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」の理想を掲げてみても、阿弥陀さまの直道(じきどう)を〝わが道〟といただかず、その道に疑念を懐(いだ)くなら、それこそが迷いであり惑いのすがたである、とおっしゃるのです。

しかしながら、仏教の通例では、迷いの根源は煩悩であると見られるようですが、親鸞聖人はもっと深く見られ、人間の迷いは煩悩というよりも、道に迷うことである。すなわち、私たち煩悩のまっただ中に「この道を歩め」とよびたもうお念仏の道があるのに、他に道がないのだろうかと右往左往しているすがたが〝人間の迷い〟であると、実に具体的な見解を示されるのです。

すべての人が歩む道

ちょっと面白い話ですが──

道に迷った旅人が原っぱに出たところ、一匹のキツネが人間を化(ば)かす準備をしている姿を見つけました。

旅人が「おまえごときに化かされてたまるか」と大声で怒鳴ると、びっくりしたキツネは「あなたは化かしません。向こうの竹やぶの一軒家にいるおじいさん、おばあさんを化かす準備をしているのです」と言って娘に化けました。

そして泥であんころもちを作り重箱に入れ、「さあ、化かしにいきましょう」と旅人を誘いました。

一軒家に着いた旅人が格子から中をのぞくと、おじいさんたちが今まさにおもちを口に入れようとしていました。

旅人が思わず「あっ、そのあんころもちを食べてはいかん」と大声で叫んだその時、ポンと旅人の肩を猟師がたたきました。

「あんた、竹やぶに頭突っ込んで、何をそんなに大声で騒いでいるんだい」

気がついてみれば、そこには一軒家もなければおじいさんやおばあさん、キツネもいません。ただどういうわけか、旅人一人が、握った竹の間から大声で叫んでいたということです。

私たちは、自分はキツネになど化かされない、と思っていますが、そうでしょうか。本当は人間すべからく煩悩というキツネに化かされ続けて一生を終えるのではないでしょうか。

ですから阿弥陀さまは、煩悩をなくしてからお浄土に来なさいと、そんな無茶なことはおっしゃいません。なぜならば煩悩をもってしか生きられないのが人間だからです。

それ故に、私たち在俗の人々も、山にこもって修行される人々も、皆ともに煩悩成就の人間なのです。ですから「一切善悪大小凡愚」(同202ページ)のすべての人間が歩ませていただく、お浄土への道は「お念仏の道」ただひとつでありました。